今、こんな本を読んでいますが、かなり主張が極端で面白いです。
自分が得意なことに熱心になり、成功することが重要と書いているのですが、それは仕事の世界ではもっともなことだと思っています。世界の成功者って、自分が好きなことをひたすら愚直に突き進めて言った結果、仕事として成功したって感じですよね。
私はもともと大手個別指導塾で教室長を務めていたりその前はプロ家庭教師として働いていた時期もあります。その観点で言うと、「勉強という苦手なことに対していかに真摯に取り組むことへの重要性」というのが欠けた生徒が非常に多かった。もちろん、仕事は好きなことを選ぶべきだと思っていますが、勉強に限って言えば「勉強が苦手」は通じないと考えています。
私は学歴社会は肯定派の人間ですが、それは「努力すれば結果に出る『勉強』という分野で、点数を獲得する努力を怠った人間は社会的評価を低く受けても仕方がない」と考えているからです。別に、勉強って「新しい法則を発見する」ことや「奇をてらって別の解法を使って解く」ことは求められておらず、「今まで教えられた解法パターンを問題に当てはめて解くことが出来るか」をテストされているわけです。
同じ問題でも、1回解けば覚えることが出来る生徒もいれば、何回も何回も繰り返してやっと覚える生徒もいます。でも、結局問題を解くことは(大学受験レベルまでの勉強に限って言えば)誰でも出来るのです。もちろん、サボった時期のある生徒はその分の埋め合わせで苦労するし、ずっと真面目に勉強してきた生徒はスムーズに優秀な成績をとることが出来るでしょう。でも、誰でも優秀な点数を取る機会を与えられている。ものすごく公平じゃないですか?
性格的に営業が苦手な人間は、一つ契約を獲得するのに苦労するでしょう。逆に営業が得意な人間は短期間で複数の契約を獲得してしまう。それはその人の特性だと思うので、それは仕方ないのです。営業が苦手でも、別の得意を仕事にしたらいい。でも、勉強って苦手を理由に逃げるわけにはいきませんよね?頭を使って問題解決の糸口を探るなんて、社会人として全員に必要なスキルなわけで、その論理性を学ぶにも勉強は適していると思うのですが、いかがでしょう。
なんて勉強のことを話していると、「あなたは勉強が出来たからそんな偉そうなことが言えるんだ」とか言われそうですが笑。小学校5年生から塾に通い、小学校の夏休みはそこから夏期講習ばかりで遊ぶ時間は削られてます。中学受験もしないのに中学受験コースに入れられ、地元の公立中学に進学したら勉強の出来る子と競争しました。もともと学力カースト上位には属していましたがずば抜けて成績が良いわけでもありませんでした。しかし、地元のトップ公立高校に進学出来たのも、「勉強が得意だった」からではありません。「3年間必死に努力したから」です。
最近、ちょっと高校受験の面倒を見ることになったのですが、あまりに勉強しない生徒を見てしまったので、昔を思い起こして書いています。努力しないと、大変だぞ~。
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